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「『小千谷文化』第9号から」

川井の愛染様について

川井 平沢喜平

 私の幼い頃愛染様のお祭りと云えば近郷でも随一の縁日として出店や見世物が多く取り広げられ善男善女の参詣者が集まり境内一杯の賑わいでした。例年打上げられる花火はこれまた近郷に誇る名物として定評があり当時の若連中(青年会)が中心になって天神囃子で玉送りなど元気一杯に行事でした。あの山頂で打上げた花火はかなり遠くより見る事が出来たのです。
 その頃の愛染様を安置された妙高寺は海抜二四〇米の山頂に在って参道もまるで登山同様で村から二キロあまりを山会いを縫って登る坂道でした。毎月二十六日夜は六夜講と云って愛染様の命日で必ず御開帳の行事が続けられてきました。あの夜道を毎月多くの参詣者があったことを思うとつくずく当時の盛況がしのばれます。
 大正十三年七月十七日夜半突如として起こった火災は高い山頂に在った萱葺の寺院、壮厳な山門と倉庫を悉く炎上した。日照り続きのため水はなく柱一本残さず翌日夕刻まで燃え尽しました。
 本尊愛染明王座像は和尚に背負われ、火の中を必死の努力により無事非難され蔵王堂に安置されました。数ヶ月後緊急バラックを以って仮本堂を現在境内の下段に造り遷座致しました。
 寺院の庫裡は翌十四年に再建、愛染堂は昭和四年に完成し昭和五年四月三一日国宝指定と同時に県知事宛移転終了の届出を済ませました。点眼及び上棟式は昭和一〇年九月七日大本山総持寺貫首勅持賜無辺光照大禅師猊下を拝請し盛大なる供養を厳修したのであります。
 旧霊場に附帯する史跡として現存しているものは、(一)旧屋敷の東隅五〇米程のところに堂屋敷と称するところに銀杏の大樹あり名付けて乳銀杏としう。(二)旧屋敷の東南一二〇米のところに古き柳の一樹がある名付けて蛇柳と云う。(三)旧屋敷背後の山嶺に一樹の老松があり名付けて三光の松と呼ぶ。この樹は相当の年令を過ぎて自然の風致を成し遥かにこれを望めば旧霊場の位置を標示すべき天然記念物として見のがせない存在であります。(四)旧屋敷の東端に蔵倉と称する断崖(飯山線妙高トンネル入口)の上に蔵王堂の旧跡がある。最近まで此処に蔵王権現を祭った御堂があったが昭和二年稀有の大雪で崩壊した。その処よりの展望風向については?年県下風景十勝を募集(元越佐新聞が)したる際この蔵王境内よりの展望が首位に当選した地方随一の霊地であります。以上は現存してあって愛染明王の御霊験記に伝いられているものです。(詳細は省略)
 因みに開基田中大炊介は別名田中大蔵源義房公とも称し里見家の祖にして、法名を妙高院殿大倉賢安長聖大居士と称し現に御墓は北方の山嶺通称卵塔の山頂に実在してあります。
 次に山嶺を東に行くと高場山がある。明治四十一年頃陸軍参謀本部陸地測量をするに当り一等三角点としてこの高場山頂海抜三八三・六米に高さ十センチ程の四角の測量台を設けたところでその展望は遠く佐渡金北山や満原平野等周囲の眺めはすばらしいところです。更に東に行くと男池と女池の古池があり科学的の探究に見のがせない存在であり、まず続いて内ヶ巻城跡あり、これらは愛染様の旧霊場に附帯する現存の史蹟であります。国の重要文化財としての愛染様は市の観光計画の一環として参道の改良工事等少なからぬ経費を投じてあります事を深く感謝すると共に今後の課題として残された旧霊場及び附帯する史蹟の保存に当局より一段の御考慮をお願いして止みません。     完


「『小千谷文化』第15号から」

真人ムジナの伝説

市の沢 渡辺常吉

 約百七八十年前の事若栃部落の作物を荒しまわり人間をばかし夜道をまどわかし岩壁の谷に落しワキの下から生血をすいとり葬式の行列をまねて人間を追いまわし興の中からゆうれいを引出す等帰宅死亡した人もあり時々真人山地八ヶ部落民を火災の鐘をならしてさわがせたり困難の結果、部落協議の末、会津藩士、下長岡様(牧野様)にお願いしてムジナ退治の御許可を得た。
 その時の許可書に日の丸の旗を頂戴して公然と穴掘りに取りかかりました。その晩ツブラさん(真人若栃南山の土地所有者の家号で当時の主人細金忠兵衛、現当主細金一雄)方では年一回づつ御馳走をムジナの穴に供えていたがその日はより一段とよい御馳走を上げて明日は穴を掘るからこれを食べて覚悟せよと申上げ供えた。其翌朝見れば残らずその御馳走を食べていたそうです。
 やがて区民は掘初め六十メートルも掘ると色々住み安く穴を作っていたそうですが三十四頭も捕獲して終りぎわに大将ムジナは岩に化け谷に落ち向山の上で腹太鼓を打って皆なをくやしがらせたとの事でした。
 その当時の日の丸は日天月天の長旗であったそうですが時の戸長である向屋敷(家号)さんに預りたるを後に小学校の校長さん方がその事を聞き参考に借れて行き、返し又借れるうち遂になくなって仕舞ったそうです。
 今あれば文化財として後世に名をとる事が出来たのにと惜しまれ残念がらせて居ます。
 備考・右「ムジナの穴」は、小千谷仙田線通り道上、現在鳥居を立ててあります。
(15号・昭和42年)