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<県外研修旅行>


紀の国への旅
平成12年度県外研修旅行(H12.7.20〜23)


<五十鈴川>

<宇治橋>

<伊勢神宮>
 「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しく呼ばれ、辞典などには「伊勢神宮」として紹介されているが、単に「神宮」というのが正式な名称。
 神宮とは、伊勢の宇治の五十鈴(いすず)川上に鎮座する皇大神宮(こうたいじんぐう・内宮)と、伊勢の山田の原に鎮座する豊受大神宮(とようけだいじんぐう・外宮)の総称。


<外宮(豊受大神宮)>


<鬼ヶ城>−天然記念物−

桓武天皇の命により坂上田村麿に征伐され、鬼と恐れられた海賊、多我丸の伝説が残る“天然記念物”。
熊野灘に面して、1キロメートル余りも続く。太平洋の黒潮が長い時間をかけて造った海の彫刻。


<熊野三山> 
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山と呼ばれる。それぞれ鎮座した年代はあきらかではないが、三山として成立を見たのは平安中期頃と言われる。
 本社を証誠殿と称し、本宮大社の家津御子神は阿弥陀如来、速玉大社の熊野速玉神は薬師如来、那智大社の夫須美神には千手観音が祭られ、これによって本地となすという。
 「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど朝廷と民間の崇敬を集め、日本第一大霊験所として熊野権現信仰は、熊野比久や熊野比久尼によって、国家挙げての信仰に発展した。
 現在でも日本全国に3000社余りの熊野神社が存在し、熊野権現信仰の広がりと根強さを象徴している。

<熊野本宮大社>
全国に3000以上あるといわれる熊野神社の総本山。石段をのぼり、総門をくぐると、檜皮葺の立派な社殿が姿をあらわす。本殿前には大きな注連縄と垂れ幕があり、その迫力は想像を絶する。
 明治22年の洪水で流出を免れたあと大斎原(おおゆのはら)から現在地に遷された。


伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)などが鎮座し、交通安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神として広く信仰されてきた。平成7年に社殿が国の重要文化財に指定。

<熊野速玉大社>
熊野川河口近くの権現山の麓に鎮座する。神代の頃に神倉山に祀られ、景行天皇の58年(西暦128年)に現在の処に新しく境内・社殿をつくって遷宮したことから、神倉山の旧宮に対して新宮と称した。
 神宝館には蒔絵手箱、彩絵の桧扇等1200点余りの国宝古神宝のほか、重要文化財の徳川吉宗奉納の糸巻太刀、朱塗り神幸船などが展示されている。

参道にそびえる平重盛が植えたという樹齢千年の大樹は、ご神木として崇められている。梛は凪に通じ、家内安全、海上安全、夫婦円満の神徳が高い。天然記念物に指定。


☆「梛(ナギ)の大樹」 

<熊野那智大社>
夫須美神(ふすみのかみ)を御主神。伊弉冉尊(いざなみのみこと)ともいい万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、また縁結びの神様として崇められている。
 社殿が創建されたのは仁徳天皇の317年。平重盛が造営奉行となって装いを改め、その後、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興した。江戸時代には、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われた。
 境内には、神武天皇東征の道案内をした八咫烏が石に姿を変えたという烏石の他、白河上皇お手植えの枝垂れ桜や平重盛が植えたという樟の木(樹齢約850年)がある。本殿は国の重要文化財に指定。


473段の石段、6棟からなる鮮やかな丹塗の社殿は標高500mに位置する。

西国三十三ヵ所めぐりの第一番札所青岸渡寺
(那智大社の境内つづきにある)


<那智の滝>
那智山の奥山、大雲取山から流れ出る本流に、 いくつもの流れが重なり合い、原生林を切り裂くように落下している。水柱は直下133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さは10mの日本一の名瀑。
 銚子口の岩盤に三つの切れ目があって、三筋になって落下し始めるところから、「三筋の滝」ともよばれている。


<那智勝浦港>


<根来寺>
一乗山大傳法院根来寺。大治5年(1130)新義真言宗の宗祖覚鑁(かくばん)が高野山に大傳法院密院を創建したのが始まりといわれる。
 高野衆徒との対立が続き、正応元年(1288)伝法院の学頭勅諭により現在の根来の地に移転した。

室町時代末期の最盛期には坊舎2700余、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧兵1万余を擁する集団であった。
 根来寺の勢力は、鉄砲をいち早く取り入れた武装集団で、戦国大名にとって無視できない存在となり、織田信長、豊臣秀吉に抵抗したが、天正13年(1585)秀吉の討伐を受け滅亡した。


<大塔(多宝塔)>
真言密教の教義を形で示したもの。明応5年(一四九六)に建立の我国最大の木造多宝塔。(高さ四十m、横幅十五m)
 秀吉の紀州征伐の焼打ちから残ったもので、その頃の戦乱の弾痕が残っている。明治32年に国宝に指定。

<鉄砲伝来>
 根来寺杉の坊算長(津田監物)は自ら種子島に渡り、鉄砲と火薬の製法を習いこれを根来の地に持ち帰った。その鉄砲と同じ物を、根来坂本に住む堺の鍛治師芝辻清右衛門に製作させたのが本州最初の鉄砲と言われている。



和歌山からフェリーで淡路島へ

<淡路花博>

「国際園芸・造園博」
ジャパンフローラ2000


<明石城>
明石は、古来から、畿内と地方を結ぶ海の関門・明石海峡に面し、播磨と摂津の接点に位置する交通の要として栄えた。この地に明石城が築城されたのは、元和5年 (1619年)。10万石を領した明石藩主・小笠原忠真(徳川家康の曾孫にあたる)による。 現在では、巽(たつみ) 櫓と坤(ひつじさる)櫓が残っている。昭和32年、国の重要文化財に指定。


<城壁から明石湾を望む> 

 明石城は兵庫県南部地震で大きな被害を受けたが、平成12年3月に修復工事が完了し、再び美しい姿が蘇った。


<大垣城>
天文4年(1535)に将軍足利義昭の命で、宮川吉左衛門安定が創築。
 関ヶ原の合戦で、石田三成、浮田秀家らがここを根拠地として立てこもったので、徳川家康はこれを攻略する困難を思い、西軍を関ヶ原に誘った。
 寛永11年(1634)から代々戸田氏の居城となり、明治におよんだ。

 


<西軍・東軍天下分け目の合戦>
当日は関ヶ原合戦から400年を記念して「決戦関ヶ原大垣博」が開催されていた。


<奥の細道むすびの地>


 松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を大垣で終え、舟で桑名に下った。


<平成11年度県外研修旅行>
四国/瀬戸内の自然と歴史の旅
〜道後温泉〜瀬戸内の名城〜傑僧の生誕地〜琴平〜栗林公園〜岡山総社〜

【道後温泉】
道後温泉本館は明治27年に建築。平成6年、国指定重要文化財に指定。


<道後・宝厳寺>
時宗の開祖一遍上人誕生の地。安置されている室町時代の一遍上人木像は重要文化財。


【善通寺】
弘法大師(空海)御誕生地
総本山善通寺は、空海の三大霊場の一つ。五重塔や御影堂、表書院などがある。

<大楠>
弘法大師が誕生するまえから繁茂していたと伝えられる。樹齢数百年を越え、幹のまわりは13メートル、高さ40メートル。


松山城】

姫路城、和歌山城とならぶ三大連立式平山城。金亀城、勝山城とも称せられた。戦国時代の勇将加藤左馬之助嘉明により築城。寛永12年(1635)に入部した松平(久松)定行は、五層の天守閣を三層に改築し、北方の山腹に高石垣を築いた。
天明4年(1784)、藩主定国のときに雷火のため天守閣が焼失。文政3年(1820)再建に着手、安政元年(1854)に竣工した。明治維新後、二度の火災があり二の丸、三の丸の建物がほとんど焼失した。


<民芸伊予かすり会館>
館内では足踏機による実演や展示等などが行われている。


海の守護神として親しまれている。もとは松尾寺の伽藍の守護神として勧請された金毘羅がいつしか本尊にかわって中心となるに至った。
古くから海上を航行する舟乗りたちの信仰を集め、室町時代から江戸時代にかけていっそうその信仰は盛んになった。
広い境内には御社や御堂が点在し、宝物館や書院などには貴重な美術品や文化財が陳列されている。

こんぴら<琴平>】


【四国村】

丸亀城】

栗林公園】


【岡山総社】


<吉備津神社>