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<歴史探訪会>

歴史探訪会(第4回年忘れ)
(平成12年11月18日〜19日)
諏訪大社・高島城・片倉館・平出遺跡
・岡部温故館・高崎城址・大信寺〜

<年忘れ歴史探訪会の一コマ>

〜諏訪方面へ向う中央高速道にて〜
姨捨サービスエリア(ハイウエーオアシス)には一茶の句碑(写真右)など著名人の句碑が並んでいる。
姨捨は「田毎の月」の景勝と伝説の地で有名。
眼下には善光寺平に広がる更埴市、森将軍塚の丘陵が見える。(写真上)
当日は数分間の休憩だけであったが、一度はゆっくり田毎の月の風土を散策してみたいと思う。


<諏訪市博物館>
本宮より2,3分の所にある。常設展示は「御柱祭」や諏訪大社の歴史など。当日は開館十周年記念として諏訪の現人神と言われた上社の神主「大祝(おおほおり)」家の企画展が行なわれていた。

<諏訪大社>
 全国に広がる諏訪大社の総本社。上・下の二社から成り、諏訪湖を中心として上社は諏訪市、下社は下諏訪町にある。信濃国の一之宮で、上社は前宮と本宮、下社は春宮と秋宮から成る。
 当日見学した上社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)。社殿は江戸時代後期に建てられたもので国の重要文化財。
 写真は回廊入口に祀られている本宮「御柱祭」御用の綱。「御柱祭」は寅年と申年の6年ごとの社殿建て替えと共に行なわれてきた。当日は、拝殿で七五三のお払いが行なわれていた。

<高島城(諏訪の浮城)>
 慶長3年、豊臣秀吉の武将日根野織部正高吉により7年かけて築城される。
 初代藩主諏訪頼水から10代藩主忠永に至る270年の間、諏訪氏の居城として威容を誇ってきた。諏訪湖の波打ち際に築いた難攻不落の水城で別名を浮城とも呼ばれている。


<片倉館>
 
明治以降諏訪盆地一帯が製糸王国として栄えたが、その蔭に過酷な労働に耐えた女工達の悲哀が秘められている。
 昭和二年、製糸実業家片倉兼太郎が女工の浴場、保養施設として建てたもの。女工達が一度に多勢入浴出来るよう立ったまま入れる浴槽になっている。
 昼食のあと昔の面影を残している廊下を渡り、深さ1,2メ−トル底には玉砂利を敷き詰め、立ったまま胸まで浸かるように作られたお風呂に暖まった。二度三度と入ってみたいおもむきのある浴場。


<塩尻・平出遺跡>
日本3代遺跡の一つで、国史跡指定。縄文時代から平安時代の長期間にわたる集落跡が見られる。高度な都の文化が広がっている地域。

<出土品の績麻(うみお)>
麻を紡いで出来た糸。江戸時代の白布、縮布と同じように古代から麻で布が織られていた。

 塩尻市立平出博物館では「銅鐸を祀る人々がいた」の特別展が開かれており、弥生人がその年の豊穣を祈念し収穫を感謝するといった儀礼や祭祀の様子が展示されていた。


<湯田中ヘルスセンターでの親睦会>
協会ならではの感想を含めた自己紹介に和気藹々の雰囲気。

<上信道ハイウエ−オアシス 佐久平>

 エスカレ−タ−で平尾山公園に登り、古くからの街道「中仙道」一帯と佐久平を一望。


富岡市立
<岡部温故館>
江戸時代末期から麻や砥石を扱う豪商であった「岡部家」の所蔵品が土蔵を展示施設として一般公開されている。

11代当主定信氏によって富岡市に寄附され、平成元年度から市が管理運営している。

 
現在は子息の栄信さんが管理者、学芸員として隣接する住宅に住んで居られ、私たちを案内して下さった。
栄信さんは「市が管理するようになってからは自由に展示が出来なくて…」と残念がっておられた。駐車場の周囲には数本の十月桜が満開で、私たちを楽しませてくれた。


<高崎城址(高崎公園)>

 高崎は古くは赤坂の庄といわれ、鎌倉時代以後は和田氏の居城の地となり、和田宿といわれ街道の一駅として発達した。 井伊直政が箕輪城に移ってからは和田城はその属城となった。慶長三年井伊氏は箕輪城からこの地に移り高崎と改めた。
 中山道と三国街道の分岐点として発達。問屋中継商が多く江戸方面から塩や呉服物を信越方面に送り、信越方面からは米穀などを江戸方面に送った。

<大信寺(徳川忠長の御廟所)>

忠長は三代将軍家光の弟で、十二歳で小諸城主、十九歳で駿河・遠江五十五万石を預かり、大納言に任ぜられたが家光の勘気に触れ高崎に幽閉された。寛永十年二十八歳で自害した。五輪塔の墓碑の裏面には次のように刻まれている。
  御逝去
寛永十癸酉年十二月六日
  御造立
延宝三卯年四月六日
    十一世心誉代

 大信寺は浄土宗の古刹で門扉には「葵」の御紋が掲げられている。
 後日、挨拶もしないで廟所をお参りした非礼の詫び状を「志」を添えてお出ししたところ、御住職から「忠長公の墓前にお花を供えておきました」というお便りを戴いた。


歴史探訪会 =北国街道=
(H12.4.22)
〜妙義・海野宿・生島足島神社・上田城跡〜

<北国街道>
 北国街道は、越後の出雲崎〜高田から善光寺、上田、小諸を経て中山道追分宿に至る道。「金の道」ともいわれ、佐渡から産出される金銀の輸送路として有名。

海野宿

海野宿は北国街道の宿場町。日本の道百選の一つ。江戸時代の家並みをそのままに残し、国の重要伝統的建造物群保護地区に指定されている。
 江戸時代は95棟の家々が並び、現在はそのうち55戸がほぼ原形のまま残っている。
表構えの格子が目につき、二階の出格子は江戸時代のもの。また、二階が張り出した出桁造りや卯建も見える。

<木曽義仲挙兵の地(海野白鳥河原)>
 治承5年(1181)義仲27歳の6月以仁王の令旨をうけ、大豪族海野氏の根拠地であり、交通の要地であるここ海野郷白鳥河原に挙兵した。
 走せ参ずるもの、地元滋野一族をはじめ、義仲の四天王樋口次郎兼光、今井四郎兼平、根井小弥太、楯六郎の部将を中心に、信濃、西上州の将兵約三千余騎、この中に義仲の養父中原兼遠の娘巴御前もりりしく出陣していた。
 この地、白鳥河原に挙兵した義仲軍は、まず平家の先ぽう城氏軍約六万余騎を横田河原に撃破し、つづいてトナミ山の戦と、つぎつぎに勝利をおさめ入京をはたし、まもなく旭将軍の称号をうけ征夷大将軍に任ぜられた。(後略)
(海野白鳥河原の説明看板より)


<生島足島神社>
 日本の中央に位置し、日本の総鎮守といわれる。
 日本国土生成の御霊である「万物を生長させる生島大神」と「万物に満足を与える足島大神」を祭っている。
 武田信玄が川中島へ向かう途中に自らがしたためた願状や家臣達の起請文などが社宝。


「武田信玄部将の起請文」


<妙義さくらの里>
切り立った妙義のふもと一帯は桜の名所。高地のため開花が遅く当日も五分咲程度だったが、長く楽しめるという。

<上田城跡>
天正11年(1583)に真田昌幸が築城。平城の形式で、城の下を千曲川が流れていたことから「尼ヶ淵城」とも呼ばれた。
徳川軍を二度討ち破った名城で、慶長5年(1600)の「関ヶ原の合戦」で徳川秀忠軍を足止させたことは有名。
元和8年(1622)に仙石忠政の入封により、城下町と北国街道の宿場町として整備された。宝永3年(1706)松平忠周が入封。忠周は8代将軍吉宗の時代に老中となる。以後松平氏が藩主をつとめ明治を迎える。