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小千谷市総合文化協会ホームページ

<歴史探訪会>
(平成11年度以前)

歴史探訪会 =中仙道=
(H12.3.25)
〜五料茶屋本陣・秋間梅林・安中・貫前神社〜

<五料茶屋本陣お東・お西>
 中山道の「松井田宿」と「横川の碓氷関所」のほぼ中間に位置した茶屋本陣。五科の茶屋本陣は二軒あり、両家とも代々名主役を勤めていた。
 建物は文化3年(一八〇六)に再建されたものを整備し復元たもの。お西の上座部分は、明治十一年に明治天皇が北陸東海御巡幸の折、「御小休所」として使われるため、明治十一年に大改修された。(文部省指定史跡)


茶屋本陣正面(南方)にそびえ立つ裏妙義

 本陣お西の上段の間から控の間、廊下にまで所狭しと飾られた700体のお雛様。障子戸を開けると箒目のついた清々しい石の庭の向こうに裏妙義が聳えたっている。

佐渡から江戸への金の輸送途中に休憩した。

<お西に展示されている史料>


<秋間梅林>

関東一といわれる三万五千本の梅の郷

<安中藩>
元和元年(1615)に井伊直勝が初代藩主として安中に移り、安中城の再建、町割りを行い安中宿を開いた。以後藩主は、五家の大名に移り替り、通算十六代つづいた。
安中は中山道の関東への入り口に当るため、いずれも徳川家譜代の大名が置かれた。

<旧安中藩武家長屋>

木造平屋建萱葺寄棟造四軒長屋
安中城内に建ち並んでいた家臣屋敷の一部。この四軒長屋は、三軒間だけ残されていたもので、平成元〜三年に復元。

<旧安中藩奉行役宅>

母屋・長屋門:木造平屋建萱葺寄棟造
この建物は平成5・6年度に古絵図と建物の礎石を元に復元。
古くは藩主板倉勝明の側近の山田三郎(1804-1862)が住んでいたと伝えられ、その後、猪狩幾右衛門懐忠が入った。両者とも安中藩の郡奉行を勤めた。




<一之宮貫前神社>



寛永12年三代将軍家光の再建。総門をくぐり参道を下った所で参拝するという珍しい構造を持つ神社。
 宝物殿には160数面の鏡が残されておりその内の三面が国の重文に指定。また、歴代天皇の肖像画が飾られている。

 

歴史探訪会 (H11.11.13〜14)
群馬・埼玉・長野の史跡を訪ねて
雙林寺・忍城・志賀高原・長野市松代〜


雙林寺
群馬県北群馬郡子持村


上野雙林寺は、白井城主長尾景仲が宝徳2年(1450)に開基。雙林寺3世曇英慧應は長尾・上杉家の菩提示である林泉寺を開創した。
小千谷市域などには雙林寺やその末寺が開山に関係する寺が幾つかあり、長尾氏や上杉氏の開山とするところもある。
雙林寺は、慶長年間に入ると、越後・佐渡・上野・信濃の総取締りとなり、争いごとなとの取りまとめをした。



関東七名城の1つ
<忍城址>

 足袋の町としても有名な埼玉県行田市は、忍藩の城下町として発展した。昭和62年に復元された御三階櫓は、忍城の実質的な天守閣として機能していた建物。本丸跡には行田市郷土博物館があり、行田の歴史と文化を紹介している。


海津城址・松代城址

 海津城は武田信玄が上杉謙信の信濃への侵攻に備え、北信濃の最前線拠点として築いた城。永禄3年(1560)頃までに完成したとされ、同4年の「川中島の合戦」の際は、妻女山に陣営を張る上杉軍に相対して武田軍の本陣となった。
 「川中島の戦い」のころは土塁であったが、後に石塁にしたものといわれる。規模は松代町の大部分を囲むほどの壮大なものであった。
 築城当初の名称は、地名を用いて海津城と呼ばれた。その後、二度にわたり名称が変更されたのち正徳元年(1711)に「松代城」と改められた。



真田邸

 真田邸は、9代目松代藩主の母お貞の方の隠居所として建てられたもので、城外御殿としては他に例がなく珍しい。



長野市立博物館
常備展示は「長野盆地の歴史と生活」をテーマにしている。



平成10年
歴史探訪会・甘楽を訪ねて


群馬県甘楽郡甘楽町小幡 国峰城址


大名庭園
織田信長の次男信雄がここに城下町を築くにあたって最初に手がけたのがこの庭園。


甘楽郡妙義町 妙義神社