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支那事変・陣中日誌(もくじ)
その1(第144号P39〜P43) その2(第145号)
その1(第144号P43〜P47)

支那事変・陣中日誌
(その1)
『小千谷文化』第144号掲載

<遺稿>
 本町(齋九)齋藤九一郎(大正三年三月一〇日生)

≪はじめに≫

ワープロ・・塚田タキノ
校   正・・阿部 金一


 この度遺族の方から「お父さんの遺品を整理していたら、数冊の従軍日誌を発見したのでお役にたてれば…」ということで、常日頃懇意にしておられる会長の小野坂庄一さんに託された。
 小野坂さんから「これは大変珍しく貴重なものだから是非とも『小千谷文化』に掲載したいので、お難儀いただきたい」との申し出があった。
 私どもは「くれぐれも原文に忠実にしてほしい」との注文を受けて移記した。しかし現(戦)地で書き記されたもので、判読に難解なところもまま見られ、若干の移記違いもあるかと思われるが、お許しいただきたい。
 NOTE BOOKと印刷された手帳風の小型なものに「陣中日誌」という標題が付けられている。その下に「倉林部隊」「菅原隊2小隊2分隊」「12.9.16」「13.2.10」とある。
頁をめくって書きだす。


昭和十二年
九月十六日 時々雨
 三光館を八時三十分出発 営門前の寺の境内に集合
十時入隊 危うく家に帰されそうになったが無事入隊 四中隊第二小隊に編入 中隊中最年少分隊 長要員 二日の動員の殊留に塁 小林敬一が居る現役当時の初年兵のところに遊びに行く
夜、外山班長を訪問 馬場に会う

九月十七日 時々雨
 午前七時整列 光輝ある 五八聯隊の軍旗を迎える
編成決定 第二小隊第二分隊長 長以下十一名 あの軍旗の下に皇国の為、身命をおとすものと思うと胸おどるを覚える

九月十八日 時々雨
 よき中隊長なり 中隊長と共に死してくいなし 午前コレラ予防接種と種痘を行う 皆はりきっていて就寝するもの一名もなし いよいよ二十四日出発の由 腕がなる

九月十九日 曇
 午後軍装検査

九月二十日 時々曇
 午前軍旗奉戴式 終わって旅団長の訓示あり 昼食に赤飯そうどうあり 午後被服返送に駅まで 帰りに山崎さんに立ち寄り御馳走になる 夕刻外出そうどう 家より小包届く

九月二十一日 曇
 午前、午後共に擲弾筒教育

九月二十二日 曇
 午前陸軍墓地参拝 午後面会日といい兄来る ゆっくり面会も出来た

九月二十三日 晴
 午前、予防接種(赤痢) 午後、各団体の慰問来たる
小千谷は河本町長、岩渕兵事係、川井平八郎谷清支店婦人、忠婦人、五十嵐助役婦人 夜、小隊の壮行会

九月二十四日 晴
 午前、チブスの予防接種 午後は中隊長の訓語 準備完了 夜、外山班長にいとまごいする 越後の夜空も最後となった今度見るは何時じゃやら

九月二十五日 快晴
 素晴らしい門出 朝四時三十分起床にて準備 八時兵営出発 道々歓送され一時四十五分高田駅発 沿道の歓送ものすごく富山すぎて夜に入る 感激 一日は暮れた

九月二十六日 曇
 沿道の歓送も石川、福井、滋賀と益々盛んになる 部落により桟敷をかけてあるところまであった 夜中の一時でも二時でもかがり火をたき、たいまつを振っての歓送、男子に生まれた幸福をつくづく味わった 懐かしき京都を過ぎてより夜は明け午前五時五十分神戸市木野浜駅に着く それより電車にて林田区眞野小学校に着く この小学校名の眞野は菅公筑紫に流される時この地点より舟にて立たれたところの由 宿舎に入ったのは九時過ぎ 午後湊川神社参拝 福原於いろはにて遊ぶ
夜は近所に泊まった兵と共に会食 芸者を二人呼んでくれた 神戸全市電車、浴場、理髪店は無料サービス

九月二十七日 時々雨
 午前予防接種 二、三人にてガラス工場見学 午後近所の方に二葉町ほてい食堂にてごちそうになる まさ江さんに写真の現像方を御願いした その後長田神社参拝 帰宅したら京都の叔父が御出でになって居られた 三時間も待たれたという
夜近所宿泊 一兵と共に新開地松浦に遊ぶ ものすごいかまいだ 一時帰宅

九月二十八日 時々晴
 午前予防接種 午後まさ江さんのところへ写真を受取にゆく まだ出来てなくまさ江さんに御馳走になって別れる その後上石くんと二葉町ひじりにて成奴と成駒を呼んで遊ぶ ひじりの女将さんから慰問に煙草を頂く 帰途を送ってもらった 途中まさ江さんより写真を受け取る 料金を払って頂いた 神戸最後の晩三日間ともものすごいサービス振りだつた 午後チョコレート工場を二人で見学 大変なもてなしにあづかった 夜近所へよばれた 就寝したのは一時 明日は荷物搭載のため午前六時出発

九月二十九日 時々雨
 懐かしき思い出を残して神戸へも最後の日となった 午前六時出発 電車にて第二突境へ 弾の積込だけだった 午後一時乗船 午後四時出帆 明石海峡をすぎる頃より夜がせまる
出帆のかんげきは二度味わうことはあるまいと思う 若い娘さんからテープを投げてもらった 船は大安丸五千三百トン 速力は現在十浬 夜に入って雨となる 急造船室の為あつくて寝ぐるしい

九月三十日 雲
 午前中寝て居る 同船に小千谷出身も大分居る 午前予防接種 午後四時関門海峡を通過 午後五時船集結の為に海中に停泊 勢ぞろいの終 午後八時いよいよ出発外海に入る 瀬戸内海波静かにて美しかった

十月一日 曇時々雨
 夜通し雨が降っていた 潜水艦が後になり先にしている
正午イルカの群を見る ものすごきかぎりなり 午後波ようやく高く船がゆれる 船首の方の者に酔者が出て来る 中隊は船の真中に位置せる者機関の音がひどいが馬の臭いもせず船のゆすれも少ない 上海着は明日夕刻と云う 雲間の夕日が美しかった 済州島が見えた 島影がなつかしい 船は盛んにゆれる

十月二日 晴
 今日は天気晴朗にして波おだやかなり 船のゆれも少ない 何処を見ても水ばかり 同行の船が見ゆるのみ 皆な退屈しきって居り速製の将棋をやって居る者がいる 老船員をかこんで話に聞き居るものが居る 話の種も大分つきたらしく何もせず寝てばかり居る者もおる 鯨が二匹無りょうを慰めてくれた
時たま飛んでくる鳥にでもさわぎたてる 将校は拳銃と双眼鏡を子供が玩具を持った様にしている 夕方警戒の駆馳艦白雲が近づいた 白雲の名がなつかしい 第一の目的地泗礁山へ夜ついては都合が悪いと云うので速力をグート落して明朝着くのだと云う
 上陸地は其の時点で指令を受けるのだと云う 同船に四中隊と十一、十二中隊、歩兵砲隊 山砲隊、大隊本部、一ヶ中隊、野砲一ヶ小隊、衛生隊

十月三日 曇
 夜は美しい星空だった 午前二時島影を見る(花鳥山) いよいよ近い 夜明けには揚子江に入った おそろしく大きい河だ どちらを見ても水平線ばかり 午前八時海軍の飛行機八機出動するところを見る 八時五十分揚子江江口に入る 両側はるかに陸が見える 米国汽船が米国砲艦に護衛されながらすぐ近くを追越した 我が駆遂艦数隻後になり先になりして居る
午前十時近く遠く砲の音が聞こえる 飛行機が盛んに飛んで居る 銃の弾薬も昨日百二十五発渡された 今日の山砲二門、野砲一門砲門を開いている 午前十一時ウースン沖に停泊 砲台はすぐ前に見ゆる 病院船二隻我が海軍の司令艦が居る 砲の音がさかんに聞こえる 花形の重爆がさかんに飛んでいる 上陸準備完了 午後一時十分いよいよ黄浦江の渡江はじめた 呉淞付近戦場いまだなまなまし 遠く砲の音を聞きつつ三時過ぎ上海着 警護の砲艦が突然浦東岸に機関銃で射嚇した 4時船は埠頭(郵船碼頭)に横づけになった 砲の音は依然と聞こえる
 イギリス国旗の多いのに驚く 浦東岸の建物には砲弾がなまなましい 浦東にはまだ二ヶ所あると云う 午後五時上陸 使役として残る 暮れ近く我が海軍の砲弾に浦東で燃え上がった 飛行機一機が盛んに射嚇していた 軍艦はさかんに砲射を続けている 上陸付近は真っ暗闇 闇の中を約三粁癌江大学付近の工場(永安紡績)跡に宿営 江をはさんで浦東だ砲の音がさかんに聞こえる 勿論ごろねだ

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